西洋様式の庭は、花の色彩の移ろいに至るまで細部にわたって計算された、繊細な造りだった。
古ぼけた淡い褐色のレンガが敷き詰められた小径を行った先に、クレマチスに覆われたドーム状のパーゴラが置かれ、中には小さなアイアンの椅子と、テーブルが備えられている。
その中に、疲れ果てた真澄はいた。
広い庭をさまよい続けた結果、疲れきってテーブルに伏せながら眠っているようにも見える。
腕の間から覗く顔色は優れない。
迎えにきた佐田は、息を飲むような光景に声を掛けることを躊躇っていた。
「真澄」
生気が失せたその顔色に、一抹の不安を抱きながら、佐田はごく小さな声で彼の名を呼んだ。
「ん……」
微かに身じろいだ彼を見て、佐田は胸を撫で下ろす思いで近付いた。
「もうすぐ、日が暮れてしまう。さあ、家へ帰ろう」
眠りから醒めた真澄は、微笑みながら手を差し伸べてくる佐田を、不思議そうに見上げた。
「どうしたんだい。私の顔に、何か?」
まだ夢の余韻が冷め切っていないのだろうと思っていた佐田に、真澄は伏せ目がちに言った。
「…誰かに、こうして迎えに来てもらうことは、今までありませんでしたから……どうしたらよいのか、わからないのです」
恥ずかしげに視線をそらす仕草が、いつもならば愛おしさを掻き立てるはずだった。
だがその言葉は、猛烈に佐田の心を締め上げたのだった。
真澄の幼少期を詳しく知るわけではなかったが、男娼として出逢った当時の事を思い起こせば、彼の過ごしてきた過酷な日々を頭の中で思い描くのは容易いことだった。
以前なら、さして気に留める言葉ではなかったはずなのに、佐田は鋭い刃物で身が削がれていくような感覚に陥った。
「…どうか、されましたか」
佐田は、はっとした。
自分は、この青年の何を知っているというのだろう。
医師と行き倒れの男娼という、ただそれだけだった関係を破ったのは、まぎれもなく佐田自身だった。
肉体の悦びを与えてやることが、この世の苦痛から何もかもを忘れさせることが出来る唯一のクスリなのだと思っていた。
そうすれば、真澄は従って自分を求めるようになり、愛するようになるだろう、と。
そう思い込んでいたのだ。
心が押し潰されそうなほどに愛しいと思うこの瞬間さえ、真澄の内側に巣食う暗いものを、佐田は知らない。
これだけ近くにいても、真澄は孤独なままなのだ。
そして、それに気がつかないまま、自己陶酔に浸っていたのは、自分自身だったということに…佐田は、初めて気がついた。
「先生……?」
呆然と立ち尽くしている佐田を心配して、真澄は顔を覗き込むように首を傾けた。
「いや、なんでもないよ。少し、考え事をしていただけだ」
混乱を覚られないよう、佐田は微笑んだ。
そして、改めて手を差し伸べる。
その手を、真澄が握って椅子から立ち上がろうとしたが、足に針を穿たれたような痛みが走って、ウッと小さく呻いた彼は、そこを庇った。
「どうした」
「い、いいえ…大丈夫です、このくらいは…」
「足が痛むのか? 診せてごらん」
佐田はすぐさましゃがんで、土で汚れきった真澄の靴を脱がせた。
現れた素足の先に、皮膚が赤く擦り切れた痕を見つけると、佐田の表情に影が差した。
「可哀想に…」
真澄の足は、慣れない革靴を履きながら広い庭をさまよい続けていくうちに、酷い靴擦れを起こしていたのだ。
その創傷を舐めて癒そうと、佐田は顔を近づけた。
「あ…ぁ、やめて…やめてください……」
血の滲む皮膚に舌先が触れて、口づけするように吸い付きながら舐めていく。
佐田の口腔には、微量の鉄の匂いがじんわりと広まった。
「ウ……ウウッ…」
真澄は思わず足を引っ込めようとしたが、佐田の手はしっかりと掴んで離そうとしない。
血の痕を丁寧に舐め取って、柔らかなハンカチを巻いて応急処置を施した佐田は、うっすらと頬を赤くした真澄を見上げた。
「随分と痛かっただろう…? 帰ったら、すぐに手当てをしよう」
そして歩いて帰るのは無理だと判断し、背中を向けて真澄へ負ぶさる様にと促した。
おいで、と誘われて、真澄は戸惑いながらそっと手を伸ばし、佐田の温かく広い背中に身体を預けた。
「…ごめんなさい」
佐田の背に揺られながら、真澄は外国製の香油の香りが漂う襟足に、頬を寄せた。
「気にしないように。たまには君をおぶって歩くのも、悪くはない」
どこまでも優しく気遣ってくれる佐田に、真澄は申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちが入り混じった複雑な気分になっていた。
いつも迷惑を掛けてばかりの自分に、ここまでしてくれる人はいない。
身体が目当てだった男たちと佐田は同じようでいて、違う。
激しく責め立てられても、そこには必ず快楽が存在し、互いに通じ合うものがあった。
言葉で伝えなくとも、不思議と佐田は真澄の身体を熟知していて、興奮させる術を持っているのだ。
けれど、靖晴が言っていたように、佐田の行動の全てが不運な人生を送ってきた者を哀れむ気持ちから来ているものなのだとすれば、真澄の心は深く深く沈み行くのであった。
(――そうは思いたくない)
真澄は、佐田の背中に身体を押し当てた。
この胸の鼓動が、佐田の耳にしっかりと届くように。
天高く昇る太陽に焦がれる花が、散り去る前に……その温もりを、しっかりと記憶に残しておきたい。
心に秘めた切なさと、ありったけの思いを込めて、真澄は抱きついた。
「おやおや、そんなに抱きしめると、食事へ行く前に私の寝室へ行かなくてはならなくなるぞ?」
冗談を言った佐田に、真澄は驚いたりすることはなかった。
それどころか、彼は本当に力強く、佐田の身体を抱きしめていた。
「真澄…?」
予想外の反応に、佐田は足を止めて真澄の様子を伺う。
鮮やかな緋色の夕日が、二人を包み込んでいた。
「……僕…………死ぬのが…こわい………」
木立が風に揺さぶられて、ザワザワと波立つ。
重苦しい瞼を閉じた佐田の耳に、山へと帰る鴉の鳴き声だけが響く。
心なしか、真澄の身体が震えている。
やはり、彼は気がついていたのだ。
しかし、佐田はすぐに目を開けて、
「何を言っている。君は、死なないよ」
と告げて、再び歩き出した。
「それに、今日は食事を終えたら、私たちの相手をしてもらう予定だ。それが終わったら、今度は私の寝室で一緒に眠る。
真澄、残念ながら君はこれから忙しい日常を送ることになるのだよ。これから死ぬような人間に、そんな務めは無理だろう?」
落ち着き払った声でいいながら、佐田は誓った。
いつものように振舞うのだ。
彼にこれ以上の恐怖を与えてはならない。
なぜなら、靖晴が言ったように、私は真澄の太陽でなければならないのだから…。
「だから、大丈夫だ」
絶対に……絶対に、死なせるものか。
太腿の後ろへ通した手をギュッと握ると、真澄は、よりいっそう佐田に頬を摺り寄せた。
それが佐田の言葉を受け入れた証なのか、死への不安に怯えているためなのかは、分からなかった。
「先生の心臓の音、よく聞こえる…」
押し当てた耳から伝わる力強い鼓動に、真澄は目を閉じ聞き入った。
互いの身体という防壁を越えて、いのちの旋律が重なり合う。
肉体の融合を凌駕した幸福感に、真澄は満たされた。
「真澄を愛するぶんだけ、私の心臓は果てしなく鳴るよ」
佐田の気障な台詞は、いままで幾度と無く耳にしてきたはずだったが、初めて面と向かって言われたような気恥ずかしさに、真澄は耳まで赤くなった。
これも、やっと通じ合えた証拠なのかもしれない。
顔を赤らめている事を知られてしまわないように、真澄は佐田の背中にそっと顔を埋めた。
「そう、短期で傲慢で野蛮なあいつなんかには、負けないくらいにね……」
その声に、真澄が顔を上げると、玄関口に靖晴が立っているのが見えた。
彼は足を小刻みに揺らして、イライラしながら「遅い!」と二人を怒鳴りつける。
どうやら、厨房に腕を振わせた夕食が待ち遠しくて堪らないようだった。
それでも、ずっと二人を待ち続けていた彼の律儀なところを初めて見つけた真澄は、何故だかその様子が可笑しくて、足の痛みも忘れてクスリと笑った。
「はは、真澄にまで笑われて、恥ずかしくないのか靖晴」
佐田もそれにつられたのか、目元が緩んでいた。
「うるせぇな!」
「まぁ、所詮お前は頭も胃袋もお子様と言うことだな」
「チッ……そうかい、分かったよ。俺は先に食うぜ、折角待っててやったってのに馬鹿馬鹿しい。
精々あんたらは冷めたスープでも飲むんだな」
二人に笑われて、何も言い返せないのが悔しいのか、靖晴はずかずかと食堂へ歩いていった。
サナトリウムを離れれば、彼らは親子そのものなのだ。
そしてその輪の中に、自分も加わることになる。
なにもかもが新しい世界に、真澄は目を細めてばかりだった。
「ふむ。冷めたスープは流石に戴けないね。私たちも処置を終わらせて、行くとしよう」
「はい」
再び歩き出した佐田の背に揺られながら、真澄は窓の方を眺めた。
空の澄み切った青が紫へと変化して、金色に光り輝く雲が延々と続いている。
歪んだガラスの向こう側を、これほどまでに美しいと思ったことはなかった。
そして夕日色の床には、重なり合った二人分の影法師が長く細く伸びている。
幸せの情景は、こんなにも身近にあったのだ。
山際に沈みゆく太陽に、真澄は微笑んだ。
END
古ぼけた淡い褐色のレンガが敷き詰められた小径を行った先に、クレマチスに覆われたドーム状のパーゴラが置かれ、中には小さなアイアンの椅子と、テーブルが備えられている。
その中に、疲れ果てた真澄はいた。
広い庭をさまよい続けた結果、疲れきってテーブルに伏せながら眠っているようにも見える。
腕の間から覗く顔色は優れない。
迎えにきた佐田は、息を飲むような光景に声を掛けることを躊躇っていた。
「真澄」
生気が失せたその顔色に、一抹の不安を抱きながら、佐田はごく小さな声で彼の名を呼んだ。
「ん……」
微かに身じろいだ彼を見て、佐田は胸を撫で下ろす思いで近付いた。
「もうすぐ、日が暮れてしまう。さあ、家へ帰ろう」
眠りから醒めた真澄は、微笑みながら手を差し伸べてくる佐田を、不思議そうに見上げた。
「どうしたんだい。私の顔に、何か?」
まだ夢の余韻が冷め切っていないのだろうと思っていた佐田に、真澄は伏せ目がちに言った。
「…誰かに、こうして迎えに来てもらうことは、今までありませんでしたから……どうしたらよいのか、わからないのです」
恥ずかしげに視線をそらす仕草が、いつもならば愛おしさを掻き立てるはずだった。
だがその言葉は、猛烈に佐田の心を締め上げたのだった。
真澄の幼少期を詳しく知るわけではなかったが、男娼として出逢った当時の事を思い起こせば、彼の過ごしてきた過酷な日々を頭の中で思い描くのは容易いことだった。
以前なら、さして気に留める言葉ではなかったはずなのに、佐田は鋭い刃物で身が削がれていくような感覚に陥った。
「…どうか、されましたか」
佐田は、はっとした。
自分は、この青年の何を知っているというのだろう。
医師と行き倒れの男娼という、ただそれだけだった関係を破ったのは、まぎれもなく佐田自身だった。
肉体の悦びを与えてやることが、この世の苦痛から何もかもを忘れさせることが出来る唯一のクスリなのだと思っていた。
そうすれば、真澄は従って自分を求めるようになり、愛するようになるだろう、と。
そう思い込んでいたのだ。
心が押し潰されそうなほどに愛しいと思うこの瞬間さえ、真澄の内側に巣食う暗いものを、佐田は知らない。
これだけ近くにいても、真澄は孤独なままなのだ。
そして、それに気がつかないまま、自己陶酔に浸っていたのは、自分自身だったということに…佐田は、初めて気がついた。
「先生……?」
呆然と立ち尽くしている佐田を心配して、真澄は顔を覗き込むように首を傾けた。
「いや、なんでもないよ。少し、考え事をしていただけだ」
混乱を覚られないよう、佐田は微笑んだ。
そして、改めて手を差し伸べる。
その手を、真澄が握って椅子から立ち上がろうとしたが、足に針を穿たれたような痛みが走って、ウッと小さく呻いた彼は、そこを庇った。
「どうした」
「い、いいえ…大丈夫です、このくらいは…」
「足が痛むのか? 診せてごらん」
佐田はすぐさましゃがんで、土で汚れきった真澄の靴を脱がせた。
現れた素足の先に、皮膚が赤く擦り切れた痕を見つけると、佐田の表情に影が差した。
「可哀想に…」
真澄の足は、慣れない革靴を履きながら広い庭をさまよい続けていくうちに、酷い靴擦れを起こしていたのだ。
その創傷を舐めて癒そうと、佐田は顔を近づけた。
「あ…ぁ、やめて…やめてください……」
血の滲む皮膚に舌先が触れて、口づけするように吸い付きながら舐めていく。
佐田の口腔には、微量の鉄の匂いがじんわりと広まった。
「ウ……ウウッ…」
真澄は思わず足を引っ込めようとしたが、佐田の手はしっかりと掴んで離そうとしない。
血の痕を丁寧に舐め取って、柔らかなハンカチを巻いて応急処置を施した佐田は、うっすらと頬を赤くした真澄を見上げた。
「随分と痛かっただろう…? 帰ったら、すぐに手当てをしよう」
そして歩いて帰るのは無理だと判断し、背中を向けて真澄へ負ぶさる様にと促した。
おいで、と誘われて、真澄は戸惑いながらそっと手を伸ばし、佐田の温かく広い背中に身体を預けた。
「…ごめんなさい」
佐田の背に揺られながら、真澄は外国製の香油の香りが漂う襟足に、頬を寄せた。
「気にしないように。たまには君をおぶって歩くのも、悪くはない」
どこまでも優しく気遣ってくれる佐田に、真澄は申し訳ない気持ちと嬉しい気持ちが入り混じった複雑な気分になっていた。
いつも迷惑を掛けてばかりの自分に、ここまでしてくれる人はいない。
身体が目当てだった男たちと佐田は同じようでいて、違う。
激しく責め立てられても、そこには必ず快楽が存在し、互いに通じ合うものがあった。
言葉で伝えなくとも、不思議と佐田は真澄の身体を熟知していて、興奮させる術を持っているのだ。
けれど、靖晴が言っていたように、佐田の行動の全てが不運な人生を送ってきた者を哀れむ気持ちから来ているものなのだとすれば、真澄の心は深く深く沈み行くのであった。
(――そうは思いたくない)
真澄は、佐田の背中に身体を押し当てた。
この胸の鼓動が、佐田の耳にしっかりと届くように。
天高く昇る太陽に焦がれる花が、散り去る前に……その温もりを、しっかりと記憶に残しておきたい。
心に秘めた切なさと、ありったけの思いを込めて、真澄は抱きついた。
「おやおや、そんなに抱きしめると、食事へ行く前に私の寝室へ行かなくてはならなくなるぞ?」
冗談を言った佐田に、真澄は驚いたりすることはなかった。
それどころか、彼は本当に力強く、佐田の身体を抱きしめていた。
「真澄…?」
予想外の反応に、佐田は足を止めて真澄の様子を伺う。
鮮やかな緋色の夕日が、二人を包み込んでいた。
「……僕…………死ぬのが…こわい………」
木立が風に揺さぶられて、ザワザワと波立つ。
重苦しい瞼を閉じた佐田の耳に、山へと帰る鴉の鳴き声だけが響く。
心なしか、真澄の身体が震えている。
やはり、彼は気がついていたのだ。
しかし、佐田はすぐに目を開けて、
「何を言っている。君は、死なないよ」
と告げて、再び歩き出した。
「それに、今日は食事を終えたら、私たちの相手をしてもらう予定だ。それが終わったら、今度は私の寝室で一緒に眠る。
真澄、残念ながら君はこれから忙しい日常を送ることになるのだよ。これから死ぬような人間に、そんな務めは無理だろう?」
落ち着き払った声でいいながら、佐田は誓った。
いつものように振舞うのだ。
彼にこれ以上の恐怖を与えてはならない。
なぜなら、靖晴が言ったように、私は真澄の太陽でなければならないのだから…。
「だから、大丈夫だ」
絶対に……絶対に、死なせるものか。
太腿の後ろへ通した手をギュッと握ると、真澄は、よりいっそう佐田に頬を摺り寄せた。
それが佐田の言葉を受け入れた証なのか、死への不安に怯えているためなのかは、分からなかった。
「先生の心臓の音、よく聞こえる…」
押し当てた耳から伝わる力強い鼓動に、真澄は目を閉じ聞き入った。
互いの身体という防壁を越えて、いのちの旋律が重なり合う。
肉体の融合を凌駕した幸福感に、真澄は満たされた。
「真澄を愛するぶんだけ、私の心臓は果てしなく鳴るよ」
佐田の気障な台詞は、いままで幾度と無く耳にしてきたはずだったが、初めて面と向かって言われたような気恥ずかしさに、真澄は耳まで赤くなった。
これも、やっと通じ合えた証拠なのかもしれない。
顔を赤らめている事を知られてしまわないように、真澄は佐田の背中にそっと顔を埋めた。
「そう、短期で傲慢で野蛮なあいつなんかには、負けないくらいにね……」
その声に、真澄が顔を上げると、玄関口に靖晴が立っているのが見えた。
彼は足を小刻みに揺らして、イライラしながら「遅い!」と二人を怒鳴りつける。
どうやら、厨房に腕を振わせた夕食が待ち遠しくて堪らないようだった。
それでも、ずっと二人を待ち続けていた彼の律儀なところを初めて見つけた真澄は、何故だかその様子が可笑しくて、足の痛みも忘れてクスリと笑った。
「はは、真澄にまで笑われて、恥ずかしくないのか靖晴」
佐田もそれにつられたのか、目元が緩んでいた。
「うるせぇな!」
「まぁ、所詮お前は頭も胃袋もお子様と言うことだな」
「チッ……そうかい、分かったよ。俺は先に食うぜ、折角待っててやったってのに馬鹿馬鹿しい。
精々あんたらは冷めたスープでも飲むんだな」
二人に笑われて、何も言い返せないのが悔しいのか、靖晴はずかずかと食堂へ歩いていった。
サナトリウムを離れれば、彼らは親子そのものなのだ。
そしてその輪の中に、自分も加わることになる。
なにもかもが新しい世界に、真澄は目を細めてばかりだった。
「ふむ。冷めたスープは流石に戴けないね。私たちも処置を終わらせて、行くとしよう」
「はい」
再び歩き出した佐田の背に揺られながら、真澄は窓の方を眺めた。
空の澄み切った青が紫へと変化して、金色に光り輝く雲が延々と続いている。
歪んだガラスの向こう側を、これほどまでに美しいと思ったことはなかった。
そして夕日色の床には、重なり合った二人分の影法師が長く細く伸びている。
幸せの情景は、こんなにも身近にあったのだ。
山際に沈みゆく太陽に、真澄は微笑んだ。
END
「はぁ、はぁ、はぁ」
よく手入れされた短い芝の上を歩くだけでも、真澄の息は途端に上がった。
至る所に植栽された薔薇や、足元に咲く可憐な花の美しさに気を取られている暇などない。
なんとしても、逃げなければならないのだ。
ようやく桜の大木の下へたどり着くと、真澄はほんの少しだけ休むつもりで、ゴツゴツとした樹皮に寄りかかった。
穏やかな風が、額に湧き出た汗から熱を奪って、心地よい。
ふと空を見上げると、白く輝く太陽がとても眩しかった。
長く日の光に当たることのなかった真澄には眩しすぎる光を手で遮りながら、真澄は逃げ出してきた部屋の方角を、何気なく見た。
建物は、二階建ての白い洋館だった。
あの美しい異国の音楽が微かに耳に届く。やはり誰かが建物の中にいる事は間違いないようだ。
そう考えた途端、真澄はある事に気がついてしまった。
今まで閉じ込められていた筈なのに、まるで逃げろといわんばかりの部屋に服を着せられて置かれ、しかも丁寧に靴まで用意されていたのだ。
冷静に考えてみれば、あの2人が簡単に自分を手放すはずがない。
深手を負った獲物を、手の届く範囲に逃がして嬲る、残酷な狩りのような遊びを企てて、どこかからこちらの様子を伺っているのではないか…と思うと、足が竦む思いだった。
いまなら、まだ戻れるのでは…。
揺らぎかけた決心に、何のためにここまできたのだと叫ぶもう一人の真澄がいた。
「…っ」
心の声を耳に反芻させて、顔を上げる。
これより先に広がっているのは、杭と鉄線で仕切られた、膝丈ほどのまでの雑草に地表を覆われている、鬱蒼とした森だ。
庭と森とを隔てるように張り巡らされた鉄線は錆びついて、その奥に聳え立つ木々には蔦が絡まり、じめじめと薄暗い空気が漂っている。
明らかに人の手が入れられていない森の奥から、立ち入ってはならないという警告のような、静かな恐怖がじわりじわりと迫ってくる。
「……やはり、僕には…無理だ」
あれだけ望んだ外の世界が、これほどまで恐怖に満ちたものだったとは、思っていなかった。
真澄は唇をかみ締めて、ゆっくりと森に背を向けた。
所詮、自分は飼い殺されるだけの愛玩動物でしかないのかもしれない。
あるいは、生き抜こうとする本能を奪われて、飛ぶことを忘れた鳥のような存在なのかもしれなかった。
鳥籠の中で生まれ、大空に羽ばたくことを夢見ていた鳥が、その翼は空を飛ぶには適さないと知った時、一体誰を恨むのだろう。
部屋へと帰る道すがら、真澄は悲観的なことばかり考えていた。
この時代に生まれ、こうして生き残ったことに意味があるのだとすれば、たとえ飛べなくとも、この錆びた鉄線に囲まれていても、差し伸べられる手に頬を寄せて生きるのが定めなのだろうか。
俯きながら元来た道を帰り、真澄が部屋の窓枠に再び手を掛けた。
「おかえり、真澄」
顔を上げた真澄の目に飛び込んできたのは、部屋の椅子に座る佐田の姿だった。
「……!」
にっこりと微笑む佐田に、一瞬足元から凍りついたように、動けなくなる。
いつ、彼がこの部屋に来たのか、真澄は分からなかった。
ただ、勝手に部屋を抜け出たことを知られたのは明白だ。
怒られるのではないだろうか。
そんな恐怖に駆られてか、佐田が歩み寄ろうとすればするほど、真澄はよろよろと後退りした。
「庭は気に入ったかい? 今の季節は、新緑の勢いが素晴らしい。もうじき薔薇の蕾も膨らんで、沢山咲くようになるよ」
「い…いや…来ないでください…!」
後退した真澄の背中に、ドンと何かがぶつかる衝撃が走った。
「俺の予想通り、ここから逃げ出す気でいたな? 真澄」
驚いて振り返ると、頭上の精悍な顔が不機嫌そうに真澄を見下ろしていた。
「靖晴…!」
前と後ろを塞がれた真澄は、靖晴に手首を掴まれて、完全に掴まってしまった。
「は、離して、離せ、靖晴…」
「俺の予想通り、部屋から逃げ出したんだから、賭けは俺の勝ちだろ」
佐田に勝ち誇った顔をした靖晴は、胸の高さにある白い首筋をべろりと舐めあげた。
「ひ…ッ」
一方佐田は子供じみた言い訳を並べた靖晴に笑いながら、窓枠を跨いで庭に出た。
そして靖晴の手から真澄を奪いさると、自らの所有物であることを示すかのように、深く、深く口付けをした。
「ん…んぅう……ッ!」
舌が口腔を吸い舐り尽くして、真澄の力が抜けていく。白昼の野外で、腰砕けにさせられるのは、初めてだった。
「俺の勝ちだって言ってるだろう、いい加減負け惜しみは止めろよな」
口では不快そうに言う靖晴だが、二人が絡み合う様子を邪魔するわけでもなく、彼は余裕の表情で、佐田が唇を離すのを待った。
「…負け惜しみ? 何を言っているんだ、靖晴。
真澄はわざわざここへ戻ってきたじゃないか。お前も見ていただろう? 逃げるのなら、戻ってくることはあるまい。だから、今回は私の勝ちだ」
2人の言っていることが理解できない。
真澄は、困り果てて佐田を見上げた。
「ん…? ああ、私と靖晴である賭けをしていてね、君がここから出て行って戻ってこなければ、二人で探し出して、靖晴が相手をするところだったのだよ。
だが、君はこうして私のところへ戻ってきてくれた。あんな薄情で乱暴なやつに抱かれるより、真澄も私の方がいいだろう…?」
佐田は濡れたままの唇へ、再び顔を近づける。
そうはさせまいと、靖晴は叫んだ。
「勝手な事を抜かすなよ、親父!」
賭けの結果を上手く言い包められそうになって、さすがに我慢できなくなった靖晴は喧嘩腰に詰め寄った。
「では、どちらがいいのか、真澄に選ばせようじゃないか。それなら文句はあるまい」
胸倉を掴まれる寸でのところで、佐田は真澄に選択を委ねた。
食らいかかる勢いだった靖晴も、その提案に自信があったのか、フンと鼻で嗤って、その場で腕組みをした。
「…いいぜ、どっちに抱かれるのがいいか、本人が一番よく分かっているはずだからなぁ?」
靖晴が、もし俺を選ばなかったらどうなるか分かっているな…?という視線を真澄に向ける。
そのギラつく威圧に満ちた目をまともに見ていられなくなった真澄に、佐田の柔らかな声が降り注いだ。
「さぁ、真澄。私と靖晴のどちらがいいのか、選んでくれ」
「…………そ…んな……」
云えよ、と靖晴に脅されても、佐田に頭を撫でられても、真澄は選べなかった。
どちらを選んでも、快感に支配される苦しみを味わうことになるのだから。
身体が憶えた甘い束縛から逃げられない自分が、果てしなく惨めに感じて、真澄は居た堪れなくなった。
「…っ……う…」
一度は逃げ出そうと、勇気を振り絞って二人のもとを離れたのに、外の世界の怖さを憶えている身体と、人の温もりを失う心細さが、真澄を思い留まらせたのだ。
現に、あの林の前に立ち尽くしていたときのような不安は、佐田の腕に抱かれていることによって不思議と無くなってしまっていた。
嫌なはずなのに、触れられるだけで心が落ち着いてくるこの感覚は、一体何なのだろう。
――わからない。
どうしていいのか、真澄はわからなかった。
云い難い感情は、悲運に苛まれ続ける己を哀れむ雫となって、真澄の目尻から流れ落ちていった。
「そう怖がらせるな。泣いてしまったじゃないか…」
佐田が真澄の顔を上向かせて、涙の筋を舌で拭ってやった。
「真澄、どうなんだ、はっきりしないと酷い目に遭わせるぞ!」
言われた傍から高圧的な態度をやめない息子に、父は呆れ気味にため息をつく。
佐田は靖晴に睨まれて、腕の中でますます萎縮する真澄に「気にしないように」と背中を擦った。
「真澄……今の気持ちを、聞かせて欲しいよ」
細く柔らかい彼の頭髪に口元を埋めた佐田は、そっと囁きかけた。
幾ら考えても、答えは出せない。
ただ、素直な気持ちを述べるのだとしたら、それは……
「に…逃げたりなど、しませんから……僕を、しばらく、独りにしてくださいませんか」
震える声が全てを物語っていた。
佐田が靖晴に対して、一瞬視線を送る。
二人の元を離れないと、自ら誓った彼を、それ以上追い詰めないための口止めだ。
靖晴も、真澄がどちらがいいか決めきれないことは、最初から分かっていた。
佐田への嫉妬を忘れたわけではなかったが、佐田の送ってきた合図の意味を確かに捉え、反論しなかった。
「わかった。君が独りになりたいのなら、好きにしていなさい。
ただし、ここは山が近い。夕暮れよりも前に、部屋に戻らなかったときは、探しに行くよ。いいね?」
「はい……」
真澄は何度か頷いて、佐田の腕を解くと、白く塗られた杉壁を伝いながら、西の庭園へと消えていった。
「追いかけないのか」
難しそうな顔をして、壁に寄りかかって腕を組んだままの靖晴に、佐田は訊ねた。
「あんたが追うなって目をしてた」
地面を見つめたまま、靖晴がぶっきらぼうに答える。
ようやく、感情に流されずに我慢することを憶えた靖晴に、佐田はいささか感心しながら、広い庭を遠望した。
しばし訪れた沈黙を、風と木の葉の揺れる音が残響しあう。
「もう、手立ては尽くしている――」
佐田が静かに切り出した。
「そんなことはわかっているさ、真澄は気がついているかどうか、分からねぇけどな…」
痩せた身体に残された期限は、もう残り少ないことを、二人は知っていた。
知っていながら、お互いにその事には触れずにいたのだ。
「では、何故お前はあそこまで真澄に辛く当たる…? 好かれる方法なら、いくらでもあるはずだろう」
言われて、靖晴は佐田の顔を見て、笑った。
「あいつは誰からも大切にされたこともないし、心から愛されたこともない。そんな不幸な人生のまま、病床に伏せて死んでいくのは、あんまりじゃないかよ。
どうせ……どうせ俺の事を好きにならないっていうんなら、とことん嫌われたほうが、あんたが真澄にとっての御天道さんになるだろ。
それだけで、アイツは救われる……」
靖晴は、目を細めながら天上の眩い光を仰いだ。
そんな彼に、佐田は、言葉を失っていた。
――続く。
よく手入れされた短い芝の上を歩くだけでも、真澄の息は途端に上がった。
至る所に植栽された薔薇や、足元に咲く可憐な花の美しさに気を取られている暇などない。
なんとしても、逃げなければならないのだ。
ようやく桜の大木の下へたどり着くと、真澄はほんの少しだけ休むつもりで、ゴツゴツとした樹皮に寄りかかった。
穏やかな風が、額に湧き出た汗から熱を奪って、心地よい。
ふと空を見上げると、白く輝く太陽がとても眩しかった。
長く日の光に当たることのなかった真澄には眩しすぎる光を手で遮りながら、真澄は逃げ出してきた部屋の方角を、何気なく見た。
建物は、二階建ての白い洋館だった。
あの美しい異国の音楽が微かに耳に届く。やはり誰かが建物の中にいる事は間違いないようだ。
そう考えた途端、真澄はある事に気がついてしまった。
今まで閉じ込められていた筈なのに、まるで逃げろといわんばかりの部屋に服を着せられて置かれ、しかも丁寧に靴まで用意されていたのだ。
冷静に考えてみれば、あの2人が簡単に自分を手放すはずがない。
深手を負った獲物を、手の届く範囲に逃がして嬲る、残酷な狩りのような遊びを企てて、どこかからこちらの様子を伺っているのではないか…と思うと、足が竦む思いだった。
いまなら、まだ戻れるのでは…。
揺らぎかけた決心に、何のためにここまできたのだと叫ぶもう一人の真澄がいた。
「…っ」
心の声を耳に反芻させて、顔を上げる。
これより先に広がっているのは、杭と鉄線で仕切られた、膝丈ほどのまでの雑草に地表を覆われている、鬱蒼とした森だ。
庭と森とを隔てるように張り巡らされた鉄線は錆びついて、その奥に聳え立つ木々には蔦が絡まり、じめじめと薄暗い空気が漂っている。
明らかに人の手が入れられていない森の奥から、立ち入ってはならないという警告のような、静かな恐怖がじわりじわりと迫ってくる。
「……やはり、僕には…無理だ」
あれだけ望んだ外の世界が、これほどまで恐怖に満ちたものだったとは、思っていなかった。
真澄は唇をかみ締めて、ゆっくりと森に背を向けた。
所詮、自分は飼い殺されるだけの愛玩動物でしかないのかもしれない。
あるいは、生き抜こうとする本能を奪われて、飛ぶことを忘れた鳥のような存在なのかもしれなかった。
鳥籠の中で生まれ、大空に羽ばたくことを夢見ていた鳥が、その翼は空を飛ぶには適さないと知った時、一体誰を恨むのだろう。
部屋へと帰る道すがら、真澄は悲観的なことばかり考えていた。
この時代に生まれ、こうして生き残ったことに意味があるのだとすれば、たとえ飛べなくとも、この錆びた鉄線に囲まれていても、差し伸べられる手に頬を寄せて生きるのが定めなのだろうか。
俯きながら元来た道を帰り、真澄が部屋の窓枠に再び手を掛けた。
「おかえり、真澄」
顔を上げた真澄の目に飛び込んできたのは、部屋の椅子に座る佐田の姿だった。
「……!」
にっこりと微笑む佐田に、一瞬足元から凍りついたように、動けなくなる。
いつ、彼がこの部屋に来たのか、真澄は分からなかった。
ただ、勝手に部屋を抜け出たことを知られたのは明白だ。
怒られるのではないだろうか。
そんな恐怖に駆られてか、佐田が歩み寄ろうとすればするほど、真澄はよろよろと後退りした。
「庭は気に入ったかい? 今の季節は、新緑の勢いが素晴らしい。もうじき薔薇の蕾も膨らんで、沢山咲くようになるよ」
「い…いや…来ないでください…!」
後退した真澄の背中に、ドンと何かがぶつかる衝撃が走った。
「俺の予想通り、ここから逃げ出す気でいたな? 真澄」
驚いて振り返ると、頭上の精悍な顔が不機嫌そうに真澄を見下ろしていた。
「靖晴…!」
前と後ろを塞がれた真澄は、靖晴に手首を掴まれて、完全に掴まってしまった。
「は、離して、離せ、靖晴…」
「俺の予想通り、部屋から逃げ出したんだから、賭けは俺の勝ちだろ」
佐田に勝ち誇った顔をした靖晴は、胸の高さにある白い首筋をべろりと舐めあげた。
「ひ…ッ」
一方佐田は子供じみた言い訳を並べた靖晴に笑いながら、窓枠を跨いで庭に出た。
そして靖晴の手から真澄を奪いさると、自らの所有物であることを示すかのように、深く、深く口付けをした。
「ん…んぅう……ッ!」
舌が口腔を吸い舐り尽くして、真澄の力が抜けていく。白昼の野外で、腰砕けにさせられるのは、初めてだった。
「俺の勝ちだって言ってるだろう、いい加減負け惜しみは止めろよな」
口では不快そうに言う靖晴だが、二人が絡み合う様子を邪魔するわけでもなく、彼は余裕の表情で、佐田が唇を離すのを待った。
「…負け惜しみ? 何を言っているんだ、靖晴。
真澄はわざわざここへ戻ってきたじゃないか。お前も見ていただろう? 逃げるのなら、戻ってくることはあるまい。だから、今回は私の勝ちだ」
2人の言っていることが理解できない。
真澄は、困り果てて佐田を見上げた。
「ん…? ああ、私と靖晴である賭けをしていてね、君がここから出て行って戻ってこなければ、二人で探し出して、靖晴が相手をするところだったのだよ。
だが、君はこうして私のところへ戻ってきてくれた。あんな薄情で乱暴なやつに抱かれるより、真澄も私の方がいいだろう…?」
佐田は濡れたままの唇へ、再び顔を近づける。
そうはさせまいと、靖晴は叫んだ。
「勝手な事を抜かすなよ、親父!」
賭けの結果を上手く言い包められそうになって、さすがに我慢できなくなった靖晴は喧嘩腰に詰め寄った。
「では、どちらがいいのか、真澄に選ばせようじゃないか。それなら文句はあるまい」
胸倉を掴まれる寸でのところで、佐田は真澄に選択を委ねた。
食らいかかる勢いだった靖晴も、その提案に自信があったのか、フンと鼻で嗤って、その場で腕組みをした。
「…いいぜ、どっちに抱かれるのがいいか、本人が一番よく分かっているはずだからなぁ?」
靖晴が、もし俺を選ばなかったらどうなるか分かっているな…?という視線を真澄に向ける。
そのギラつく威圧に満ちた目をまともに見ていられなくなった真澄に、佐田の柔らかな声が降り注いだ。
「さぁ、真澄。私と靖晴のどちらがいいのか、選んでくれ」
「…………そ…んな……」
云えよ、と靖晴に脅されても、佐田に頭を撫でられても、真澄は選べなかった。
どちらを選んでも、快感に支配される苦しみを味わうことになるのだから。
身体が憶えた甘い束縛から逃げられない自分が、果てしなく惨めに感じて、真澄は居た堪れなくなった。
「…っ……う…」
一度は逃げ出そうと、勇気を振り絞って二人のもとを離れたのに、外の世界の怖さを憶えている身体と、人の温もりを失う心細さが、真澄を思い留まらせたのだ。
現に、あの林の前に立ち尽くしていたときのような不安は、佐田の腕に抱かれていることによって不思議と無くなってしまっていた。
嫌なはずなのに、触れられるだけで心が落ち着いてくるこの感覚は、一体何なのだろう。
――わからない。
どうしていいのか、真澄はわからなかった。
云い難い感情は、悲運に苛まれ続ける己を哀れむ雫となって、真澄の目尻から流れ落ちていった。
「そう怖がらせるな。泣いてしまったじゃないか…」
佐田が真澄の顔を上向かせて、涙の筋を舌で拭ってやった。
「真澄、どうなんだ、はっきりしないと酷い目に遭わせるぞ!」
言われた傍から高圧的な態度をやめない息子に、父は呆れ気味にため息をつく。
佐田は靖晴に睨まれて、腕の中でますます萎縮する真澄に「気にしないように」と背中を擦った。
「真澄……今の気持ちを、聞かせて欲しいよ」
細く柔らかい彼の頭髪に口元を埋めた佐田は、そっと囁きかけた。
幾ら考えても、答えは出せない。
ただ、素直な気持ちを述べるのだとしたら、それは……
「に…逃げたりなど、しませんから……僕を、しばらく、独りにしてくださいませんか」
震える声が全てを物語っていた。
佐田が靖晴に対して、一瞬視線を送る。
二人の元を離れないと、自ら誓った彼を、それ以上追い詰めないための口止めだ。
靖晴も、真澄がどちらがいいか決めきれないことは、最初から分かっていた。
佐田への嫉妬を忘れたわけではなかったが、佐田の送ってきた合図の意味を確かに捉え、反論しなかった。
「わかった。君が独りになりたいのなら、好きにしていなさい。
ただし、ここは山が近い。夕暮れよりも前に、部屋に戻らなかったときは、探しに行くよ。いいね?」
「はい……」
真澄は何度か頷いて、佐田の腕を解くと、白く塗られた杉壁を伝いながら、西の庭園へと消えていった。
「追いかけないのか」
難しそうな顔をして、壁に寄りかかって腕を組んだままの靖晴に、佐田は訊ねた。
「あんたが追うなって目をしてた」
地面を見つめたまま、靖晴がぶっきらぼうに答える。
ようやく、感情に流されずに我慢することを憶えた靖晴に、佐田はいささか感心しながら、広い庭を遠望した。
しばし訪れた沈黙を、風と木の葉の揺れる音が残響しあう。
「もう、手立ては尽くしている――」
佐田が静かに切り出した。
「そんなことはわかっているさ、真澄は気がついているかどうか、分からねぇけどな…」
痩せた身体に残された期限は、もう残り少ないことを、二人は知っていた。
知っていながら、お互いにその事には触れずにいたのだ。
「では、何故お前はあそこまで真澄に辛く当たる…? 好かれる方法なら、いくらでもあるはずだろう」
言われて、靖晴は佐田の顔を見て、笑った。
「あいつは誰からも大切にされたこともないし、心から愛されたこともない。そんな不幸な人生のまま、病床に伏せて死んでいくのは、あんまりじゃないかよ。
どうせ……どうせ俺の事を好きにならないっていうんなら、とことん嫌われたほうが、あんたが真澄にとっての御天道さんになるだろ。
それだけで、アイツは救われる……」
靖晴は、目を細めながら天上の眩い光を仰いだ。
そんな彼に、佐田は、言葉を失っていた。
――続く。
真澄は、微かな物音で目を醒ました。
それは、まだ朝日が部屋を包む前の、朝焼けが始まろうとしていたときの事だった。
静かにドアを開けて入ってきたのは靖晴で、起き上がろうとした真澄と目が合うと、彼は足音も立てぬまま、近付いた。
「具合はどうだ」
訊かれなければ気がつかないほど、昨晩よりは症状も軽くなっていた。
「ああ、少し、良くなったよ……」
「そうか」
短い返事に、なにかされるのでは、と胸騒ぎを感じる。
すると、靖晴はポケットから小さな薬瓶と針のない注射器を取り出し、瓶の中から透明な薬液を吸い上げながら、真澄に向かって「尻を出せ」と静かに言い放った。
その手の中にある、得体の知れない薬が満たされた注射器に、真澄は恐ろしさを感じた。
「い……嫌だ」
拒絶したものの、逃げる間もなく捕まって、うつ伏せにされる。
尻を弄られ、注射器の先端を体内に入れられた。
「ああぁぁ……」
冷たいガラスの質感から放たれた薬液が、直腸に沁みる。
それが何の薬なのか、知る術は何も無い。
「うぅッ」
靖晴が乱暴に注射器を抜き取って、今度は患者を拘束するための革手錠で身体の自由を奪いにかかろうとした。
「一体なんなんだ、靖晴…ッ」
何の説明もないまま、両手と両足を頑丈に拘束された真澄は、身体を捩じらせて叫んだ。
「お前をここから出してやる」
金具を留め上げて、ようやく口を開いた靖晴の言葉に、真澄は驚いて抵抗を止めた。
ここから出してやると、はっきりと聞こえたからだ。
「どうして……?」
突然の解放を告げる靖晴の意図がわからない。
そして、この身体の拘束具は、一体何を意味するというのだろう。
真澄は、自分を組み敷いている男の、真の目的に少しでも触れようと、戸惑いの眼差しを向けた。
「ここに居続ける限り、佐田の邪魔が入って、お前の事を独占できない。
アイツがいる限り、お前は俺と佐田とを比べようとするだろう? 俺はもうそんなの沢山なんだよ、真澄。
いつかお前をここから連れだして、俺の家で飼ってやろうと思ってなぁ、前々から準備してたのさ。
佐田はさっき街に出向いたばっかりだ。ゆうに三時間は戻らねぇ……」
「そ……んな……」
語尾が微かに濁ったのは、呂律がうまく廻らなくなったからだった。
その異変に気がついたときには、身体は重く、視界も澱みはじめていた。
神経に作用する薬だと真澄が感づいて、唇をグッと噛んで自らに痛みの刺激を与える。
そうでもしなければ、気を失ってしまいそうだった。
「それになぁ、さっきお前の尻にぶち込んだのは、軽い麻酔薬だ。
少しの間、薬で眠っているうちに、お前は俺が用意した新しい寝床に納まるという寸法……」
力の抜けていく身体に、荒い愛撫が与えられる。
「やめ……ろッ、や…晴ッ、ああっ……」
「佐田から見せつけられた分は、ちゃんと返してもらうぜ……」
薬に侵された身体は、耳の後ろや、みぞおち、鼠径に至るまで、じっくりと絹肌の感触を味わうには最高の状態だった。
力を抜いた唇で、音を鳴らしてしゃぶり付き、真澄の中の眠っていた灯芯に火を点けていく。
「そら、みろ。嫌がるふりして、よがってるじゃないか」
触れられた箇所から拡がっていく快楽の揺らめきは、足のつま先まで到達して、熱く蕩けさせるのだ。
「う……んッ……んんッ」
それでも、真澄はいまにも擦り切れてしまいそうな綱を、決して離そうとはしなかった。
唇を噛み、血を滲ませながら抵抗する。
這い上がれるはずの無い泥沼にいても、心だけは渡すまいと、真澄は叫んだ。
「靖晴……っ、お前まで、あの男たちと同じ…鬼畜になるのだけは……やめてくれッ!」
寝巻きを裂こうとした手が止まる。
苦しそうに息をつく真澄が、靖晴の方を振り向いて、哀れみの情を持って見つめた。
「これ以上…僕に一生恨まれ続ける男を増やさないでくれ……こんなことをしても、僕の魂(こころ)は手に入らない……そんなに、僕を傷つけるのが愉しいのなら、もういっそのこと、殺してくれ……!」
目の覚めるような言葉を浴びせられ、靖晴が我に返ったような顔つきで、凛とした瞳の青年を見下ろした。
こんなにも愛おしいのに、身体は反応していても、魂がひとつになることはない。
手に入れようとすればするほど、真澄の心は遠ざかっていく。
なんの不自由もなく、欲しいものは全て手に入れてきた男は、不器用なやり方でしか愛を紡ぐことができない。
佐田のように振舞えていたならば、真澄は、きっと……。
「俺は…憐憫の情を抱いてお前に接してる訳じゃない……」
思うように行かない現実に、靖晴の感情が次第に高ぶっていった。
「幾ら俺がお前を愛そうとしても、お前は俺に全てを委ねてはくれないんだな……」
ならば、その綱を断ち切るまでだ。
腕力だけで真澄の身体を仰向けに返すと、激高のままに、靖晴は右手を振り上げた。
――打たれる。
そう覚悟した真澄が、ぎゅっと目を瞑った、そのときだった。
「そういうことか、靖晴」
突然の来訪者に驚いたのは、靖晴も真澄も同じだった。
痛みが来ると覚悟して目を瞑った真澄は、恐る恐る目を開けた。、
頭上に高々と上げられた靖晴の手が、ブルブルと痙攣しているのが見える。
振り返った靖晴と真澄の目に飛び込んできたのは、外出着に身を包んだままの、佐田の姿だった。
「……中央病院へ行くんじゃなかったのか」
頬を狙っていた手が、ゆっくりと下りる。
平静を装っている靖晴だったが、声の震えから、只ならぬ状態であるのは確かだった。
だが、腕組みをして、ドアにもたれかかっていた佐田が、ポケットから真鍮の鍵を取り出して揺らすと、靖晴はカッと目を見開いて叫んだ。
「どこで手に入れた…!」
「金に目の眩んだ鼠から頂戴してきた。私の大切な真澄が、野蛮な男に連れ去られようとしているのに、仕事などしていられる訳があるまい?
残念だが、お前の浅はかな計画は失敗に終わりそうだな。私がここを空けているうちに、いろいろと細工をしていたようだが……もっとココを使わないと」
佐田が人差し指でこめかみの辺りをトントンと突いて、クスッと嗤う。
見透かされていながら、泳がされ続けていたことの悔しさに、靖晴の怒りは頂点に達した。
「クソッ、最初っから気付いてたのかよ、親父!」
言い放った靖晴の下で、真澄は自分の耳を疑った。
「な……」
聞き違いなどではなかった。
二人が親子であったことは、今まで知らされていなかった。それどころか、血の繋がりさえない他人同士だとばかり思っていた程だ。
ベッドに一人残された真澄は、靖晴が佐田に詰め寄っていくのを見つめることしか出来なかった。
「お前はいつも詰めが甘い。真澄をあらゆる面で独占できるのは、この私以外にいない」
自信たっぷりに言ってのける佐田の手から、隠し部屋の鍵を奪い取った靖晴は、小さく舌打ちをした。
父の前では、いつも物事が上手くいかない。
喩えようのない歯痒さを、息子は噛み締めた。
「ところで、――私の……――――なにをした?」
佐田が靖晴の肩越しに、なにか話しかけているようだったが、麻酔の作用で殆ど意識を失いかけた真澄に、その会話の内容を聞き取ることは出来なかった。
途切れながら耳に入る佐田の声色が、まるで眠りを誘う何かの呪文のように、暖かく響く。
仕事を投げ出してまで、自分のために戻ってきてくれた佐田を、待ち望んでいた訳でもないというのに、彼の呼びかけすら、真澄は心地よく、安らぎを覚えるのだった。
2つの人影が、近付いてくる。
混乱と、新たな火種を含んだ三角関係を巻き込んだまま、真澄は気を失った。
目を醒ますと、そこは見慣れた病室のような部屋だった。
未だ夢を見ているのだろうか。
懐かしい風の感触が、瞼を優しく撫でていく。
あの病室は、窓はあっても開け放つことは出来ない。
なのに、確かに春の風は幾度となく部屋に吹き込んでは、外の匂いを運んでくるのだ。
ぼんやりとする目を何度か擦ったとき、何かが頬に当たった。
驚いた真澄が目を凝らすと、それは真っ白なシャツの袖口だった。
そればかりではなく、下着とズボンに至るまで、きちんと履かせてある。
どうやら、眠っている間に、服を着せられていたようだった。
ベッドから起き上がって辺りを見回すと、やはりそこは以前の病室ではなく、まったく別の部屋だった。
室内にはテーブルと椅子が置かれ、人が出入りできるほど大きく開け放たれた窓には、格子が一本もない。
(ここは一体…)
ふらつく足で窓辺へ近寄ってみると、足元に、真新しい革靴が主を待っていた。
戸惑いながらも、真澄はその靴を履いてみることにした。
すると、吹き込む風に乗って、どこかから音楽が聞こえてくるのに気がついた。
隣室に置かれた蓄音機から流れる歌が、異国の賛美歌だと知らない真澄は、ますます自分が何処に連れてこられたのか、わからなくなった。
窓から望む景色は、サナトリウムにいた頃と似た、緑深きものだった。
地面は芝で覆われ、遠くに見える桜は、あとすこしで咲きそうなほど色付いている。
そのもっと向こうに見える林の先には、一体何があるのだろうか。
真澄の心臓が、激しく鼓動を打つ。
――もしかしたら、逃げられるかもしれない。
とっさに白い窓枠に手を掛けて、真澄は部屋を抜け出した。
――続く。
※真澄、気を失ったり寝てばっかりでスミマセン。佐田と靖晴が色々と厄介なので、もう少し、続きます。
それは、まだ朝日が部屋を包む前の、朝焼けが始まろうとしていたときの事だった。
静かにドアを開けて入ってきたのは靖晴で、起き上がろうとした真澄と目が合うと、彼は足音も立てぬまま、近付いた。
「具合はどうだ」
訊かれなければ気がつかないほど、昨晩よりは症状も軽くなっていた。
「ああ、少し、良くなったよ……」
「そうか」
短い返事に、なにかされるのでは、と胸騒ぎを感じる。
すると、靖晴はポケットから小さな薬瓶と針のない注射器を取り出し、瓶の中から透明な薬液を吸い上げながら、真澄に向かって「尻を出せ」と静かに言い放った。
その手の中にある、得体の知れない薬が満たされた注射器に、真澄は恐ろしさを感じた。
「い……嫌だ」
拒絶したものの、逃げる間もなく捕まって、うつ伏せにされる。
尻を弄られ、注射器の先端を体内に入れられた。
「ああぁぁ……」
冷たいガラスの質感から放たれた薬液が、直腸に沁みる。
それが何の薬なのか、知る術は何も無い。
「うぅッ」
靖晴が乱暴に注射器を抜き取って、今度は患者を拘束するための革手錠で身体の自由を奪いにかかろうとした。
「一体なんなんだ、靖晴…ッ」
何の説明もないまま、両手と両足を頑丈に拘束された真澄は、身体を捩じらせて叫んだ。
「お前をここから出してやる」
金具を留め上げて、ようやく口を開いた靖晴の言葉に、真澄は驚いて抵抗を止めた。
ここから出してやると、はっきりと聞こえたからだ。
「どうして……?」
突然の解放を告げる靖晴の意図がわからない。
そして、この身体の拘束具は、一体何を意味するというのだろう。
真澄は、自分を組み敷いている男の、真の目的に少しでも触れようと、戸惑いの眼差しを向けた。
「ここに居続ける限り、佐田の邪魔が入って、お前の事を独占できない。
アイツがいる限り、お前は俺と佐田とを比べようとするだろう? 俺はもうそんなの沢山なんだよ、真澄。
いつかお前をここから連れだして、俺の家で飼ってやろうと思ってなぁ、前々から準備してたのさ。
佐田はさっき街に出向いたばっかりだ。ゆうに三時間は戻らねぇ……」
「そ……んな……」
語尾が微かに濁ったのは、呂律がうまく廻らなくなったからだった。
その異変に気がついたときには、身体は重く、視界も澱みはじめていた。
神経に作用する薬だと真澄が感づいて、唇をグッと噛んで自らに痛みの刺激を与える。
そうでもしなければ、気を失ってしまいそうだった。
「それになぁ、さっきお前の尻にぶち込んだのは、軽い麻酔薬だ。
少しの間、薬で眠っているうちに、お前は俺が用意した新しい寝床に納まるという寸法……」
力の抜けていく身体に、荒い愛撫が与えられる。
「やめ……ろッ、や…晴ッ、ああっ……」
「佐田から見せつけられた分は、ちゃんと返してもらうぜ……」
薬に侵された身体は、耳の後ろや、みぞおち、鼠径に至るまで、じっくりと絹肌の感触を味わうには最高の状態だった。
力を抜いた唇で、音を鳴らしてしゃぶり付き、真澄の中の眠っていた灯芯に火を点けていく。
「そら、みろ。嫌がるふりして、よがってるじゃないか」
触れられた箇所から拡がっていく快楽の揺らめきは、足のつま先まで到達して、熱く蕩けさせるのだ。
「う……んッ……んんッ」
それでも、真澄はいまにも擦り切れてしまいそうな綱を、決して離そうとはしなかった。
唇を噛み、血を滲ませながら抵抗する。
這い上がれるはずの無い泥沼にいても、心だけは渡すまいと、真澄は叫んだ。
「靖晴……っ、お前まで、あの男たちと同じ…鬼畜になるのだけは……やめてくれッ!」
寝巻きを裂こうとした手が止まる。
苦しそうに息をつく真澄が、靖晴の方を振り向いて、哀れみの情を持って見つめた。
「これ以上…僕に一生恨まれ続ける男を増やさないでくれ……こんなことをしても、僕の魂(こころ)は手に入らない……そんなに、僕を傷つけるのが愉しいのなら、もういっそのこと、殺してくれ……!」
目の覚めるような言葉を浴びせられ、靖晴が我に返ったような顔つきで、凛とした瞳の青年を見下ろした。
こんなにも愛おしいのに、身体は反応していても、魂がひとつになることはない。
手に入れようとすればするほど、真澄の心は遠ざかっていく。
なんの不自由もなく、欲しいものは全て手に入れてきた男は、不器用なやり方でしか愛を紡ぐことができない。
佐田のように振舞えていたならば、真澄は、きっと……。
「俺は…憐憫の情を抱いてお前に接してる訳じゃない……」
思うように行かない現実に、靖晴の感情が次第に高ぶっていった。
「幾ら俺がお前を愛そうとしても、お前は俺に全てを委ねてはくれないんだな……」
ならば、その綱を断ち切るまでだ。
腕力だけで真澄の身体を仰向けに返すと、激高のままに、靖晴は右手を振り上げた。
――打たれる。
そう覚悟した真澄が、ぎゅっと目を瞑った、そのときだった。
「そういうことか、靖晴」
突然の来訪者に驚いたのは、靖晴も真澄も同じだった。
痛みが来ると覚悟して目を瞑った真澄は、恐る恐る目を開けた。、
頭上に高々と上げられた靖晴の手が、ブルブルと痙攣しているのが見える。
振り返った靖晴と真澄の目に飛び込んできたのは、外出着に身を包んだままの、佐田の姿だった。
「……中央病院へ行くんじゃなかったのか」
頬を狙っていた手が、ゆっくりと下りる。
平静を装っている靖晴だったが、声の震えから、只ならぬ状態であるのは確かだった。
だが、腕組みをして、ドアにもたれかかっていた佐田が、ポケットから真鍮の鍵を取り出して揺らすと、靖晴はカッと目を見開いて叫んだ。
「どこで手に入れた…!」
「金に目の眩んだ鼠から頂戴してきた。私の大切な真澄が、野蛮な男に連れ去られようとしているのに、仕事などしていられる訳があるまい?
残念だが、お前の浅はかな計画は失敗に終わりそうだな。私がここを空けているうちに、いろいろと細工をしていたようだが……もっとココを使わないと」
佐田が人差し指でこめかみの辺りをトントンと突いて、クスッと嗤う。
見透かされていながら、泳がされ続けていたことの悔しさに、靖晴の怒りは頂点に達した。
「クソッ、最初っから気付いてたのかよ、親父!」
言い放った靖晴の下で、真澄は自分の耳を疑った。
「な……」
聞き違いなどではなかった。
二人が親子であったことは、今まで知らされていなかった。それどころか、血の繋がりさえない他人同士だとばかり思っていた程だ。
ベッドに一人残された真澄は、靖晴が佐田に詰め寄っていくのを見つめることしか出来なかった。
「お前はいつも詰めが甘い。真澄をあらゆる面で独占できるのは、この私以外にいない」
自信たっぷりに言ってのける佐田の手から、隠し部屋の鍵を奪い取った靖晴は、小さく舌打ちをした。
父の前では、いつも物事が上手くいかない。
喩えようのない歯痒さを、息子は噛み締めた。
「ところで、――私の……――――なにをした?」
佐田が靖晴の肩越しに、なにか話しかけているようだったが、麻酔の作用で殆ど意識を失いかけた真澄に、その会話の内容を聞き取ることは出来なかった。
途切れながら耳に入る佐田の声色が、まるで眠りを誘う何かの呪文のように、暖かく響く。
仕事を投げ出してまで、自分のために戻ってきてくれた佐田を、待ち望んでいた訳でもないというのに、彼の呼びかけすら、真澄は心地よく、安らぎを覚えるのだった。
2つの人影が、近付いてくる。
混乱と、新たな火種を含んだ三角関係を巻き込んだまま、真澄は気を失った。
目を醒ますと、そこは見慣れた病室のような部屋だった。
未だ夢を見ているのだろうか。
懐かしい風の感触が、瞼を優しく撫でていく。
あの病室は、窓はあっても開け放つことは出来ない。
なのに、確かに春の風は幾度となく部屋に吹き込んでは、外の匂いを運んでくるのだ。
ぼんやりとする目を何度か擦ったとき、何かが頬に当たった。
驚いた真澄が目を凝らすと、それは真っ白なシャツの袖口だった。
そればかりではなく、下着とズボンに至るまで、きちんと履かせてある。
どうやら、眠っている間に、服を着せられていたようだった。
ベッドから起き上がって辺りを見回すと、やはりそこは以前の病室ではなく、まったく別の部屋だった。
室内にはテーブルと椅子が置かれ、人が出入りできるほど大きく開け放たれた窓には、格子が一本もない。
(ここは一体…)
ふらつく足で窓辺へ近寄ってみると、足元に、真新しい革靴が主を待っていた。
戸惑いながらも、真澄はその靴を履いてみることにした。
すると、吹き込む風に乗って、どこかから音楽が聞こえてくるのに気がついた。
隣室に置かれた蓄音機から流れる歌が、異国の賛美歌だと知らない真澄は、ますます自分が何処に連れてこられたのか、わからなくなった。
窓から望む景色は、サナトリウムにいた頃と似た、緑深きものだった。
地面は芝で覆われ、遠くに見える桜は、あとすこしで咲きそうなほど色付いている。
そのもっと向こうに見える林の先には、一体何があるのだろうか。
真澄の心臓が、激しく鼓動を打つ。
――もしかしたら、逃げられるかもしれない。
とっさに白い窓枠に手を掛けて、真澄は部屋を抜け出した。
――続く。
※真澄、気を失ったり寝てばっかりでスミマセン。佐田と靖晴が色々と厄介なので、もう少し、続きます。
「……どんな」
話を聞く気になったのは、ほんの好奇心に過ぎなかった。
手を止めた靖晴が、ベッドの縁へと腰を下ろした。
「初めて、男に抱かれたときのことだ。
相手は、元陸軍の将校だった。
子供の僕が、鍛え上げた大人に力で勝てるわけがなかった。
僕の身体は彼の体液で汚れきって、心も身体も疲れ果てた。
このまま放置されて、痛みと寒さと飢えで死んでしまうんじゃないかと、本気で思っていた。
しばらく一人で動けずにいたら、彼は食べかけの林檎を僕によこしたんだ。
仕事の報酬だと、笑っていた。
僕は、それを掴んで、一口齧った。何日振りかで、やっと食べ物にありつけた僕は、無我夢中でそれを食べた。
林檎なんて高級な食べ物を口にできるなんて、とても信じられなかったし、僕にそんな価値があったのかと思うとね…………なんだか、やっと生きていくことを認めてもらえたような気がしたんだ」
葬り去った過去を、他人に告白したのは初めてだった。
靖晴が、過去に嫉妬する男だというのは頭で分かってはいたが、吐き出さずに入られなかった。
「彼は、僕の知らないことを色々と教えてくれた。日本が戦争に負けてから、国を変えるための新しい組織ができた事も、これからどうやって生きていくべきなのかも、全て……。
教養も、秀でた能力もない僕が、唯一誇れるものは……父と母から受け継いだこの身体だけだった。だから……」
そう呟いたきり、真澄は静かになった。
男娼として出逢った男たちの断片が過ぎって、口を噤ませたのだ。
「いつものおまえにしては、やけに饒舌じゃないか」
黙って耳を傾けていた靖晴が、振り向きざまに笑った。
確かに、彼の言うとおりだった。
誰かに対して、こんなに自分の過去を語ったことなどいままでなかったのだ。
強引な腕を恐れ、神経を逆撫でないようにしながら接してきた。
いつも、靖晴の前では無口だったのに。
そして何かに付けて、身体の関係を求められるのが日常と成り果てた中で、靖晴が真澄の話を最後まで聞き入るのは、珍しいことだった。
具合が悪いから、手加減しているとでも言うのだろうか。
「自分でも、なぜこんなことを喋っているのか、よくわからない……僕は、どうかしてしまったんだろうか」
熱に操られて、心の内を吐露する。
「でも、もういいんだ……今の事は、聞き流しておいて欲しい」
真澄は、瞼を閉じてもなお降り注ぐ白熱灯の光と熱を遮るかのように、顔を両手で覆った。
熱が下がれば、またいつもの生活が戻るはずだ。
なにも変わらない、靖晴と佐田から弄ばれる日常に……。
だが、靖晴はそれで納得しなかった。
「ああ、お前はどうかしちまってる。俺を嫌っているくせに、自分が不利になるのを分かっていながら、俺を庇って嘘をついたりな……」
そういいながら、布団の上から圧し掛かる。
キシ、とベッドが小さく啼いた。
「僕との関係を、先生に知られてはまずいのだろう……?」
唇が触れるか触れないかの距離で訊くと、靖晴の動きがぴたりと止まる。
困惑の色に揺らぐ真澄の瞳に、靖晴のまっすぐな視線が重なった。
「……そう思うのか?」
「え……」
それは意外な答えだった。
けれど、その短い言葉から真の思惑を読み取ることはできない。
複雑な思念が織り交ぜられた返事に、真澄は否定も肯定もできなかった。
「……俺のことが好きか、真澄」
ぞくりとするような囁きで唐突に訊かれて、真澄の首筋に震えが走った。
こんなに穏やかな声で、気持ちを確かめられたことは今までに一度もない。
言わねばならないように仕向けられて、啼かせられ、すすり泣きながら何度も言わせられた言葉を、熱で溶けてしまいそうな喉の奥から搾り出す。
「好き……だ……」
心からの言葉ではなかった。
だが、ここでの生活は真澄にいくつかの事を学ばせた。
偽りの感情で答えなければ、痛い目に遭うのは自分なのだ。
手を靖晴の頬に差し伸べて、ゆっくりと撫で下ろす。
靖晴の瞼が降りるのを、口付けの合図と取って真澄は目を閉じた。
「嘘をつけ」
そう吐き捨てると、真澄の唇に触れることなく、靖晴はベッドから降りた。
「靖晴……?」
不機嫌そうに、回診車を押して出て行こうとする彼に、一体何がいけなかったのかと真澄は必死に考えを巡らせたが、彼の逆鱗に触れた言葉が何だったのか、分からなかった。
だが明らかに怒っている彼を、そのまま帰してしまう訳には行かない。
「靖晴、待て! 僕が悪かった、謝るから……ごめんなさい」
軋みながら進んでいた回診車が、止まった。
病床の恋人を冷たく見下ろし、靖晴はいつになく低い声で、脅すように、囁いた。
「今は俺を嫌いでも、そのうち心底好きだと言わせてやるさ……俺がいなくちゃ生きていけないくらいに、お前の中に俺を埋めてやる……」
冷ややかな笑みを作った顔は、どこか自信と決意に満ちた表情のようで、何かが起こる予感を匂わせている。
触れれば暴発してしまう危うさが、今の靖晴にはあった。
「明日は早い。できるだけ、沢山寝て体力を蓄えておくんだな」
「待て、靖晴……!」
呼び止めに応じることなく、靖晴は部屋を出て行った。
静寂が戻った病室で今一度、なにが怒らせるきっかけになったのだろうかと、真澄は暫く考えたが、頭痛が邪魔をして細かいことまで思い出すことが出来ない。
仕方なく、真澄はベッドに身を沈めた。
体内の熱が上がって、瞳は渇きを補おうとさらに潤む。
瞬きすら鬱陶しくて、真澄はゆっくりと目を閉じた。
靖晴が言っていたことは、よく分からなかった。
だが、何か良くないことが起こる予感が、真澄のなかで少しずつ膨らんでいく。
夢であって欲しいと願いながら、真澄は暗い底なしの淵へと飲み込まれていくように、眠りに落ちた。
――続く。
話を聞く気になったのは、ほんの好奇心に過ぎなかった。
手を止めた靖晴が、ベッドの縁へと腰を下ろした。
「初めて、男に抱かれたときのことだ。
相手は、元陸軍の将校だった。
子供の僕が、鍛え上げた大人に力で勝てるわけがなかった。
僕の身体は彼の体液で汚れきって、心も身体も疲れ果てた。
このまま放置されて、痛みと寒さと飢えで死んでしまうんじゃないかと、本気で思っていた。
しばらく一人で動けずにいたら、彼は食べかけの林檎を僕によこしたんだ。
仕事の報酬だと、笑っていた。
僕は、それを掴んで、一口齧った。何日振りかで、やっと食べ物にありつけた僕は、無我夢中でそれを食べた。
林檎なんて高級な食べ物を口にできるなんて、とても信じられなかったし、僕にそんな価値があったのかと思うとね…………なんだか、やっと生きていくことを認めてもらえたような気がしたんだ」
葬り去った過去を、他人に告白したのは初めてだった。
靖晴が、過去に嫉妬する男だというのは頭で分かってはいたが、吐き出さずに入られなかった。
「彼は、僕の知らないことを色々と教えてくれた。日本が戦争に負けてから、国を変えるための新しい組織ができた事も、これからどうやって生きていくべきなのかも、全て……。
教養も、秀でた能力もない僕が、唯一誇れるものは……父と母から受け継いだこの身体だけだった。だから……」
そう呟いたきり、真澄は静かになった。
男娼として出逢った男たちの断片が過ぎって、口を噤ませたのだ。
「いつものおまえにしては、やけに饒舌じゃないか」
黙って耳を傾けていた靖晴が、振り向きざまに笑った。
確かに、彼の言うとおりだった。
誰かに対して、こんなに自分の過去を語ったことなどいままでなかったのだ。
強引な腕を恐れ、神経を逆撫でないようにしながら接してきた。
いつも、靖晴の前では無口だったのに。
そして何かに付けて、身体の関係を求められるのが日常と成り果てた中で、靖晴が真澄の話を最後まで聞き入るのは、珍しいことだった。
具合が悪いから、手加減しているとでも言うのだろうか。
「自分でも、なぜこんなことを喋っているのか、よくわからない……僕は、どうかしてしまったんだろうか」
熱に操られて、心の内を吐露する。
「でも、もういいんだ……今の事は、聞き流しておいて欲しい」
真澄は、瞼を閉じてもなお降り注ぐ白熱灯の光と熱を遮るかのように、顔を両手で覆った。
熱が下がれば、またいつもの生活が戻るはずだ。
なにも変わらない、靖晴と佐田から弄ばれる日常に……。
だが、靖晴はそれで納得しなかった。
「ああ、お前はどうかしちまってる。俺を嫌っているくせに、自分が不利になるのを分かっていながら、俺を庇って嘘をついたりな……」
そういいながら、布団の上から圧し掛かる。
キシ、とベッドが小さく啼いた。
「僕との関係を、先生に知られてはまずいのだろう……?」
唇が触れるか触れないかの距離で訊くと、靖晴の動きがぴたりと止まる。
困惑の色に揺らぐ真澄の瞳に、靖晴のまっすぐな視線が重なった。
「……そう思うのか?」
「え……」
それは意外な答えだった。
けれど、その短い言葉から真の思惑を読み取ることはできない。
複雑な思念が織り交ぜられた返事に、真澄は否定も肯定もできなかった。
「……俺のことが好きか、真澄」
ぞくりとするような囁きで唐突に訊かれて、真澄の首筋に震えが走った。
こんなに穏やかな声で、気持ちを確かめられたことは今までに一度もない。
言わねばならないように仕向けられて、啼かせられ、すすり泣きながら何度も言わせられた言葉を、熱で溶けてしまいそうな喉の奥から搾り出す。
「好き……だ……」
心からの言葉ではなかった。
だが、ここでの生活は真澄にいくつかの事を学ばせた。
偽りの感情で答えなければ、痛い目に遭うのは自分なのだ。
手を靖晴の頬に差し伸べて、ゆっくりと撫で下ろす。
靖晴の瞼が降りるのを、口付けの合図と取って真澄は目を閉じた。
「嘘をつけ」
そう吐き捨てると、真澄の唇に触れることなく、靖晴はベッドから降りた。
「靖晴……?」
不機嫌そうに、回診車を押して出て行こうとする彼に、一体何がいけなかったのかと真澄は必死に考えを巡らせたが、彼の逆鱗に触れた言葉が何だったのか、分からなかった。
だが明らかに怒っている彼を、そのまま帰してしまう訳には行かない。
「靖晴、待て! 僕が悪かった、謝るから……ごめんなさい」
軋みながら進んでいた回診車が、止まった。
病床の恋人を冷たく見下ろし、靖晴はいつになく低い声で、脅すように、囁いた。
「今は俺を嫌いでも、そのうち心底好きだと言わせてやるさ……俺がいなくちゃ生きていけないくらいに、お前の中に俺を埋めてやる……」
冷ややかな笑みを作った顔は、どこか自信と決意に満ちた表情のようで、何かが起こる予感を匂わせている。
触れれば暴発してしまう危うさが、今の靖晴にはあった。
「明日は早い。できるだけ、沢山寝て体力を蓄えておくんだな」
「待て、靖晴……!」
呼び止めに応じることなく、靖晴は部屋を出て行った。
静寂が戻った病室で今一度、なにが怒らせるきっかけになったのだろうかと、真澄は暫く考えたが、頭痛が邪魔をして細かいことまで思い出すことが出来ない。
仕方なく、真澄はベッドに身を沈めた。
体内の熱が上がって、瞳は渇きを補おうとさらに潤む。
瞬きすら鬱陶しくて、真澄はゆっくりと目を閉じた。
靖晴が言っていたことは、よく分からなかった。
だが、何か良くないことが起こる予感が、真澄のなかで少しずつ膨らんでいく。
夢であって欲しいと願いながら、真澄は暗い底なしの淵へと飲み込まれていくように、眠りに落ちた。
――続く。




